鹿

奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき  (猿丸太夫)

 

 取り扱いがいささか季節はずれですが。

 いま漫画『ちはやふる』を読んでいて、ヒロインのちはやが、「紀貫之だったかなあ鶯や鹿が鳴くように 自然の発語が詩になることがあるって言ったのは」と思い出す場面があるのです。ぱっと見つけられなくて、探している途中に見つけたのが上記の歌なのでした。

 

 これ、ネット上でしばしば「紅葉踏み分け」がどこにかかるかについて、当然のごとく「鹿」にかかると解釈しているものを見受けます。諸経緯を経てそれが定説になっているのかしらん。議論がなされ、「鹿」にかかるのが穏当であるとされる、という記述もあります。

 

 しかし、歌をいくらか鑑賞してきた人なら、歌中のことばというのが必ずしも一面的な懸かり方、響き方をしないことがあるのくらいすぐ察しはつかないでしょうか。たとえば高校でも学習し得る内容として、

 

春立てる霞 

 

 とかいうフレーズがありますが、これは「春が立つ(立春)」であり、同時にまた「霞が立つ(立ち込める)」でもあります。

 

 紅葉を踏み分けるのが「わたし」であり、「鹿」でもあるという懸かり方で不都合があるでしょうか。「秋のかなしさ」を私は全身で体感しているのであって、里で山から響く鹿の声を聞くというよりは、同じく山を踏み分けているなかで声を聞く、という方が自然でもあると思います。

 思うところあって山を歩くわたし。落葉を踏み分ける。踏めば音がする。音のために足元を見ると、地面は秋のいろである。山のどこかにいる鹿もまた同じように歩き回っているのだろう、というふうに。秋に染まった山を同じく彷徨い歩くわたしと鹿が、じかにではなく鹿が鳴くことによって邂逅する、とも。

 

 それからもう一つは、「秋は悲しき」の解釈なのですが、これ、第一義的には「悲しい」で構わないとは思うものの、果たして一義でいいのかしらんとも思います。鹿の鳴く声、というのは恐らくは牡鹿が雌鹿を求める声であり、そこに哀切をみるというのは妥当です。ただ、メランコリーと片付けるか、落葉の色、踏む音、鹿の声の重層による季節の深まりを「愛でる」のか、あるいはそのいずれもか、というのは考えてもいいような気がします。

 実際、「かなし」は古語では「愛し」の意味をも持ち、この歌の成立も古今集の時点ですからその用例も成立し得ます。「かなし」が「悲しい」と「愛しい」の意味を兼ねるのは、古代の日本人にとってそれらの感情が未分化だったからであって、そうした語釈の可能性も考慮にいれていいのではないかと考えます。

 従って引用時は、あえて「かなし」とかな書きにしています。古典で表記についての作家からの墨付きというのはないから、ご容赦あれよ。

 

 

 んーどうでしよう。