空白

 しょうむない人生論のようなものになりますけれども、最近つくづく感じることを。

 現代は、という一般化が性急なら、現代に生きる己は、つくづく「空白」がない。通勤途中の車の中でも、家でも、ランニング途中でも音楽を聴いている。あるいはぽっどキャストを。インターネット環境は、快適さはおいてほぼ整っていて、何かといえばアクセスして、ほとんど病気。厳密に診断を求めれば、依存症の類だと思う。

 

 きっかけは人間ドックに行って、眼圧が正常値より高いと言われたことだった。眼圧が高いのを放置していれば緑内障が進行して、視力や視野に障りが出てくる。理由はいろいろ考えられて、ひとつはストレス。それから単純に、目を酷使する度合いが多分人より圧倒的に高い。

 

 あるいはまた、今年度の仕事の目配りのたいへんさも、冒頭のことを思わせる契機になったかもしれない。部署の長になって、目を配る範囲が増えた。自分で抱えて自分で解決すればよかったこれまでと変わって、人に頼まねばならぬことや、育成の意味などをこめてあえて頼んで、成り行きを見守ることも。また、上司との付き合い方も。

 加えて、抱える諸課題もわりとまだ正解のないものが多く、勢い考えることが必要になる。

 

 これらの状況の中で、情報にたえず囲まれていることは決してよろしくない。精神衛生や健康の面で、また、仕事の生産効率の面で。己はもっと早めに問うてみるべきだった。そんなに情報にコミットする必然性が、果たしてあるのか、と。

 

 食べ物を食べても、うまげなものがあればすぐに写真に撮る。インスタで加工してSNSでシェア。いいねがあればほくそ笑むというが先立って、どんな味かを長く覚えていない。あるいはその日その時、何を食べたのかを思い出すのも難しいことに気付く。

 

 たとえば通勤の途中の音楽を断って見る。その日しなければならない物事の順序が整理される。やるべきことで忘れていたことを思い出す(そう、このところ己は、思い出すということをしていなかった!)。仕事で立案をする時に、PCから離れて、広い目のノートにアウトラインを書きだして見る。先行事例の収集に血道を上げるよりも、実際的でシンプルなアイデアは、案外自分の頭の中に漂っている。それをつかむ作業のためには、情報の中からざばっと上がって、陸で考える間が必要である。

 

 書は余白で決まるとかいうらしい。音楽もスイングのためには空白が。読書もまた然り。トレーニングだって休息が大きな成長を促す。こう考えると、もう一歩進めて、自分が何も生産していないような惨めに思える時間だって、ロングスパンで見れば大切なことかもしれない。

 

 ともあれ時間的に空間的に、物量に圧倒されない隙間が己には必要だと思う。

 

 テーマソングは解散が決まったSAKEROCKの"MUDA"。蓋しこうやって何かしら意義ある終わり方を求める限り、まだまだ空白を生かすには遠いね君。何とはなしに終わってもいいではないか。

 


SAKEROCK / MUDA MusicVideo - YouTube