オカ!

 岡潔かー。気になる。日本の数学者。数学に没頭しすぎて、一般から見れば奇行も多かったらしい。ただ授業や研究の水準は高く、たとえば湯川秀樹が京大で学んだ際、専攻した物理の授業よりもはるかに刺激的だったと後年語っているとか。また、国際的に著名な数学者が、業績がすごすぎて、「キヨシ・オカ」はグループの名前だと信じて疑わなかったらしい。

 

 アプローチの仕方も面白くて、ナンバースクール在籍時から、友人に

 

 僕は論理も計算もない数学をやってみたい

 

 と語っていたとか。数学で国際的かつ一般的に重視される論理や計算は数学の本体ではない、の謂いらしい。もちろんこれは、西洋の自然科学をひととおり修めて、自身の文化的な土台に基づいて省みたからこそいえることなのだろうけれども。

 

 このことから連想されるようなことがあって、たとえば文法にしても、吾国でそれなりに理論的な蓄積があったにもかかわらず、開国と同時に、欧米言語について云々された理論に支配されて、従来のものが打ち捨てたられた、という過去があるのだとか。欧米言語を対象に積み上げられた理論を日本語にあてはめようとするものだから不整合が多々あり、それがすなわち「日本語は論理的に貧弱である」という誤解に繋がったとも言われる。そのことを思い出す。

 

 岡の場合と筋道は異なるものの、これまた思い出すこととして、池田晶子の言葉(だったか、彼女が引いた言葉だったか)がある。すなわち、極めて西洋的なものは、極めて東洋的なものに似ることがある。二つの地点で一所懸命掘りに掘りまくったら、互いに通じてしまったかのように。プロセスにこそあらゆるものが宿る、ということもある。けれどもプロセスというのは必ずしも大事ではない、というか、プロセスに個性はあるのだけれども、それぞれが個性的であっても、極めれば似通った地点に到達する、ということは言えそうだ。一通り西洋自然科学を修めながら、自身の文化的土台への敬意を失わなかった岡は、そのことへの気づきがあったのだろうと想像する。